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CVの鑑賞態度に関する提案


若さは美しいけれども美しさは若さではないよ
美はもっとあらゆるものを豊かにふくんでいるんだ―岡崎京子『ヘルタースケルター』

見た目で選んで何が悪いの!―瀬戸朝香



慎ましやかで美しいペン回しが好きです。

(今回は故あって,慣れないながらも『である調』を用いました。高圧的に感じてしまう方もいらっしゃるかもしれませんが,その点はご勘弁願いたいと思います。以下より本題です。)



 私自身,CV鑑賞に対してはそれほど強い拘りを持っているわけではない。CVをどう鑑賞してどのような感想を持とうが各人の自由であると思っている。しかしながら常々「CVとはどう見るのが正しいのか」という疑問を抱いている。編集者の苦労を加味した形で見るのが正しいのか,それともあまり考え込まずに感覚的な見方をするのが正しいのか。もちろん絶対的な正解は存在しないが「CV鑑賞のあり方」を考えるということは,編集者に敬意を払うという意味でも真摯に向き合わなくてはならない問題であろう。


 編集者視点のCV論というものはたまに見かける。「CV編集とはこうあってほしい」とか「CVを編集する際にはこういう点に留意したい」とか,技巧的な側面も含めて敷衍に語られているものである。しかしながら,鑑賞者視点でのCV論というのはあまり見かけない。「CVとはこう鑑賞すべきだ」といったような論調も存在して然るべきではないかと思う。そこで今回は私なりにCV鑑賞態度に関する提案をしてみたいと思う。


 今回私が提案したいのは映像作品としての視点から捉える「オタク的な目線でのCV鑑賞」である。現在では「オタク=萌え」と定義されていると言っても過言ではない。だがここで言う”オタク”とはその定義とは異なるものであり,具体的には岡田斗司夫が自身の著書である『オタク学入門』で示した,以下の様に表されるオタク像を指している。

映像の時代に過剰適応した視力と,ジャンルをクロスする高機能なレファレンス能力で,作り手の暗号を一つ残らず読み取ろうとする,貪欲な鑑賞者なのだ。


ここで岡田は映像作品であるアニメを,優れた動体視力を駆使して分析的な目線で鑑賞する者こそオタクであるとしている。この岡田の発言を参照して,前島賢は自身の著書である『セカイ系とは何か』において以下の様に詳細な考察をおこなっている。

彼のあげるオタクの特徴のひとつに「映像の時代に過剰適応した視力」がある。
たとえば,究極のオタク向けアニメである『エヴァ』のオープニングアニメは,カット割りがとにかく早い。わずか数コマしか登場せず,録画した映像をスローモーションで見なければ判別できないような絵まで混ざっている。このようなカットに気付けるのは,オタクが優れた動体視力をもっているからだし,後ほどコマ送りにしてそのカットの存在を確かめるには,当然,映像を録画しておかなくてはならない。放送された作品を漫然と見るのではなく,その細部に至るまでわずかな情報も見逃すまいとする鑑賞態度に,岡田はオタクの特徴を求める。
(中略)
そんな常に作品から一歩引いた,シニカルでスノッブとも言えるような作品視聴の態度を岡田のオタク論は描き出す。岡田が言うオタクになるためには,たとえどんな感動的なシーンでも,作品にのめり込んで分析的な視点を手放すようなことがあってはならないのだ。


これらは全てアニメを対象として語られたものではあるが,映像作品としての側面から考えればペン回しのCVにも同じことが言えるだろう。編集者からの暗号を読み取ろうとする分析的な視点からの鑑賞こそが,今回提示する「オタク的な目線でのCV鑑賞」の指し示すところである。では具体的にどのような観点から,CV内に込められた”作り手の暗号”を読み取っていけばよいのだろうか。


 多くのCVは,OP―本編―EDというフォーマットが約2分~5分という時間の中に収められている。OP・EDもさることながら出演者の順番,本編の文字出し,動画切り替えの演出には,まさに岡田が言う”作り手の暗号”が含まれている。そのような「編集者が最もその場に適していると考えた細かな演出(暗号)」の意味を解読するためには,派手な視覚的効果や豪華な出演者などのわかりやすい部分に着目するのはナンセンスであろう。SPSL'projectでおなじみの編集者scissor's氏もCVのあり方について,自身のブログである『SPSL'plus』の「【text】現代CV概論」という記事内で以下のように語っている。

私は、「CVの質」というものは、出演者で決まるとは考えていません。
ぶっちゃけて言いますが、出演者がどんなに良くても、編集が駄目なら駄作なんです。
駄作の拾いが良い例です。いい出演者を拾っていても、駄作だと感じませんか?


出演者それぞれのFSも看過はできないが,それ自体が直接的にCVの質を左右するものではないということである。換言すれば,編集者によるきめ細かな演出こそがCV全体の質を決定づける要素であると言える。scissor's氏は同記事内でCVにおける音楽の重要性についても説いている。『音楽を無視して,FSを詰め込んだだけのものはもはやCVとは呼べない』という趣旨の発言からも,CVの質とその音楽が非常に密接な関係にあることが分かる。ということは,編集者の暗号を読み解くためには「音楽との調和」という観点が大きなヒントとなってくるのではないだろうか。


具体例を挙げてみよう。
JapEnシリーズの8作目で,2012年に公開されたCVである『JapEn8th』。全体を通して細部へのこだわりが感じとれる非常にウェルメイドな作品である。このCVが公開された直後に某スピナーによって行われたWebラジオ内にて以下のような発言があった。

「Menowa*さんからBeigeさんに切り替わるところで,一瞬だけ暗転している所がいい―」

普通に視聴しているだけではまず気付くことがないであろうこの場面(参考)。よく見ると確かに一瞬だけ画面が真っ暗になっているのが分かる。コマ送りなどで注意深く視聴しないと気付くことはできない程の細かい演出である。にもかかわらず,その点をピックアップしている辺りにこの人物の優れた動体視力と鋭い感性が窺える。では,なぜその場面で一瞬だけ暗転する必要があったのだろうか。実際にこの場面を見れば分かる通り,CV内の音楽が1分48秒終盤の低い音を皮切りにゆったりとした曲調へと変化している。曲調の変化に合わせて映像もBeige氏のインフィニティを基軸とする,ゆったりとした印象のものへと展開している。すなわち低音をきっかけとした音楽の転換に合わせて,視覚的なメリハリの意味を込めて一瞬の暗転を加えたのではないだろうか。


 このような「映像の時代に過剰適応した視力」を駆使し,”作り手の暗号”を読み取ろうとする鑑賞態度こそが,CVの「オタク的」な見方であると言える。暗転に関する解釈はあくまで私的なもので,必ずしも編集者の意図と合致しているとは限らない。だが,今回の主題は暗号の解き明かし方という総括的な鑑賞態度の提案にある。重要なのは解き明かした暗号の内容が編集者の意図と合致しているか否かではない。仮に作者の意図せざる誇大解釈であったとしても,解釈自体は作品に対しての深みを増幅するかのように,有益に作用するものではないかと考える。


 いかがであろうか。おそらく「あまり細かい点は気にせず気楽にCVを楽しみたい」という多くのスピナーにとっては小賢しく感じる見方であろう。しかしながら,気楽なCV鑑賞は作り手側のモチベーション低下を誘発する可能性がある。残念ながら現在多くのCV鑑賞者の態度は編集者のモチベーションを上げる事ができる程の水準に達しているとは言い難い。どんなに素晴らしいCVが公開されたとしても,JEBのCV公開トピックやYouTubeのコメント欄などでその素晴らしさが詳細に語られているのを見ることは殆どない。『素晴らしい』とか『良かった』等の具体性に欠ける褒め言葉のみしか受け取れないのであれば,CVを作成する側のモチベーションが下がってしまったとしてもなんら不思議はない。そういった現状を打開するきっかけとしても,このような「オタク的な目線でのCV鑑賞」はある種有効に作用するのではないだろうか。


 冒頭でも述べたように「CV鑑賞の仕方」というのは,編集者に敬意を払うという意味でも真摯に向き合うべき問題である。鑑賞者レベルの底上げを期待するという意味でも,鑑賞の仕方を体系化するための議論というものはもっともっと盛んに行われるべきではないかと考える。



以上 私のCV鑑賞態度に関する考え方をまとめてみました。
反論や質問,ご意見などいただけると幸いです。


ペン回し界の明るい未来を願っています。


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